海洋の生物地球化学的サイクルのモデリング
Modeling of biogeochemical cycles in the ocean

山中康裕

天気, 44, 835-845


1. はじめに / 2. モデルについて / 3. 溶存有機物と沈降粒子 / 4. 古海洋への応用 / 5. 人為起源物質の海洋による吸収について / 6. おわりに / 参考文献

 1. はじめに

海洋中の栄養塩や二酸化炭素などの物質分布は, 海洋循環と生物生産とのバランスによって決まっている (詳しい解説は, 山中(1996)を参照). このようなことを扱う海洋物質循環の分野は, 1990年代に入り急速に発展してきている. これは, IPCCレポートにみられるように人為起源二酸化炭素の 海洋による吸収が注目されたこと, Sugimura and Suzuki(1988)から始まる海洋炭素循環における 溶存有機物の役割に関する論争が行われたこと, Bacastow and Maier-Reimer(1990)やNajjar et al.(1992)から始まる 海洋大循環モデルに簡単な生物化学過程を組み込んだモデルによる研究が 行われたこと, World Ocean Circulation Experiment (WOCE), JGOFS(Joint Global Ocean Flux Study)などの プロジェクト観測が行われたことなどによる.

まず, やや専門的になるが, この解説に必要となる海洋物質循環の用語について述べておく. 海洋中の有機物は, 粒子状有機物(Particulate Organic Matter, POM)と 溶存有機物(Dissolved Organic Matter, DOM)に分けられる. DOMは1$\mu$mの穴を持つグラスファイバーフィルターを通過したもの, POMはそうでないもの, と慣例的に定義されている(例えば, Kirchman et al., 1993). POMのうち, 大きい粒子は沈降粒子(マリンスノー)の一部として重力落下するが, 小さいものはDOMと同様に水とともに移動する. 本論で解説するモデルでは, 重力落下するものをPOMとして扱い, 水とともに移動するものをDOMとして扱っている. 従って, モデルで扱うPOMやDOMは, 厳密な意味では慣例的な定義とは異なるが, POMの小さい粒子の濃度はDOMの濃度に比べてかなり低いので, 慣例的な定義と ほぼ同じと考えて良い. POMの大きい粒子の濃度もDOMの濃度に比べてかなり低いが, その沈降速度が大きいために, あとで議論するように, POMによる鉛直下方への炭素輸送量はDOMより大きくなる. POM(DOM)中の炭素, リン酸, 窒素を POC(DOC), POP(DOP), PON(DON)と表される. なお, POMとDOMを合わせて量をTOM(Total Organic Matter)と表される場合がある.

海洋中の無機炭素は, 二酸化炭素(CO$_2$), 重炭酸イオン(HCO$_3^-$), 炭酸イオン(CO$_3^{2-}$)の形で海水に溶存している. これらの無機炭素の総量を全炭酸という. DOCとともに議論する場合には, 全炭酸は溶存無機炭素(Dissolved Inorganic Carbon, DIC) と表記されることも多い. % 海洋中の生物起源の沈降粒子は, プランクトンなどの軟組織と殻とに分けられ, 軟組織はPOMであり, 殻は炭酸カルシウム(CaCO$_3$)やシリカ(SiO$_2$)に分けられる. 従って, 沈降粒子中の炭素は, 粒子状有機炭素のPOCと無機炭素のCaCO$_3$に分けられることになる.

海洋炭素循環に対するDOMの役割の議論や研究は, IPCCレポートなどのいくつかの炭素循環のレビュー (IPCC, 1990, 1995; Sarmiento and Siegenthaler, 1992; Siegenthaler and Sarmiento, 1993)から様子を知ることができる. これらのレビューで使われた図を第1図に示す. 第1図では, 生物活動に伴う海洋表層から深層への炭素輸送は, POMとDOMによるものに大まかに分けられている. 1990年には後で述べるDOMの論争は既に始まっていたが, DOMによる表層から深層への炭素輸送は, POMによるものに比べて小さいと考えられていたため, IPCC(1990)の図には示されていない. Sarmiento and Siegenthaler(1992)のレビューでは, DOMによる輸送およびDOMの総量は, Bacastow and Mair-Reimer(1991)とNajjar et al.(1992)のモデルによる結果より, それぞれ8GtC/年と1600GtCとされた. しかしそれらのモデルが利用した Sugimura and Suzuki(1988)によるDOC濃度の観測値は Suzuki(1993)によって取り下げられ, 最近の観測値は大幅に低下した. それを考慮して, Siegenthaler and Sarmiento(1993)のレビューでは, 全く同じ論文を根拠としているにもかかわらず, 6GtC/年と700GtCとされ, IPCC(1995)では, さらに6GtC/年と700Gt未満とされている. 最近のYamanaka and Tajika (1997, 以後YT97と略する)では 3GtC/年と650GtC(準難溶性DOMのみは20Gt)と見積もられている.

また, モデルによる 人為起源二酸化炭素の海洋による吸収量の見積もりは, 鉛直1次元の簡略化されたモデルによるものから 3次元モデルによるものへ移りつつある. 3次元モデルによる研究は, Bacastow and Maier-Reimer(1990)やSarmiento et al.(1992)によって始められ, 発表されている論文はまだ少ないものの, IGBPのもとで行われている OCMIP(Ocean Carbon Model Intercomparison Project) に参加を予定しているグループ数は, ヨーロッパで GOSAC(Global Ocean Storage of Anthropogenic CO$_2$)の8グループ, アメリカでOCMIP USAの6グループ, オーストラリアと日本のそれぞれ1グループの合計16グループになっている. このOCMIPは, モデルの結果間の比較とWOCEなどで得られた観測との比較を 行うプロジェクトである.


2. モデルについて

2-1. 解く手続き

海洋生物化学大循環モデルは, 一言で言えば, 海洋大循環モデルに簡単な生物化学過程によって 生成・消滅するトレーサを新たに加えたものである. これは, 大気大循環モデルにおいて, 物理過程を温度や水蒸気の力学過程における生成・消滅項として 扱っていることに似ている. Yamanaka and Tajika (1996, 以後YT96と略する) およびYT97では, Bacastow and Maier-Reimer(1990)やNajjar et al.(1992)などと同じように, 海洋大循環モデルで流速場や水温・塩分分布を求め, その結果を利用して海洋生物化学大循環モデルで 栄養塩などのトレーサー分布を得ている(オフライン法). 流速場や水温・塩分分布とトレーサー分布を 同時に解くことも最近では行われている(オンライン法) (Sarmiento and Qu\'{e}r\'{e}, 1996). 季節変動や総観規模の風応力変動などの外力のもとで解を得る場合には, オンライン法の方がより適切に計算することが出来るものの, 流速場に合わせた時間ステップをとる必要があるなど, オフライン法に比べて計算時間がかかってしまう. 年平均などの定常外力のもとで定常解を得る場合には, オフライン法とオンライン法の結果は, 原理的には同じとなる (但し、間欠的に起こる対流調節の取り扱いなどの問題は残る). 従って, オンライン法とオフライン法には一長一短があり, 扱う問題によって選ぶ必要がある.

2-2. 扱う予報変数と生物化学過程

海洋生物化学大循環モデルで扱う生物化学過程は, 第2図に示すように数多くあるが, 注目するトレーサーによって扱うべき過程が決まる. % 海洋生物化学大循環モデルを 大まかに次の3つのタイプに分けることが出来る.

  1. 栄養塩循環を主に扱ったもの (Najjar et al.,1992; Anderson and Sarmiento, 1995). 予報変数は, リン酸や溶存酸素であり, DOMを計算する場合もある. 生物生産, 沈降粒子の溶存, 大気--海洋間のガス交換などの過程を取り扱う.
  2. 炭素循環を主にあつかったもの (Basactow Maier-Reimer, 1990, 1991; YT96; YT97). 予報変数は, リン酸や溶存酸素に加えて, 全炭酸, アルカリ度や炭素同位体 であり, DOMを計算する場合もある. 生物生産, 沈降粒子の溶存, 大気--海洋間のガス交換に加えて, 無機化学平衡, 同位体分別効果などの過程も扱う.
  3. 人為起源物質のみを扱ったもの(Sarmiento et al., 1992; England, 1995). 予報変数は, 人為起源全炭酸やフロンなどである. 大気--海洋間のガス交換過程のみを扱う.

個々のトレーサーについて必要な過程を次に述べる. リン酸の濃度分布を計算するためには, その濃度が海洋表層の生物生産量を大まかに決めているため, 生物生産および沈降有機物の溶解の過程を計算する際には, リン酸のみを取り扱えばよい. 厳密に言えば, 実際の海洋では, リン酸濃度よりもむしろ硝酸濃度によって 海洋表層の生物生産量が決まっていることがよく知られている. 硝酸濃度を計算するためには, 海洋表層で生物活動により硝酸がアンモニアや亜硝酸にも変化すること, 窒素固定や脱窒などの過程があること, などを考慮する必要がある. よって, 硝酸濃度の計算はリン酸に比べて複雑となる. 幸いなことに, 海洋中と海洋生物中のリン酸と硝酸との濃度比は, ほぼ同じであり, リン酸濃度で硝酸濃度を近似できるため, 現在のモデルではリン酸を取り扱っている. 従って, モデルのリン酸は, いくつかの過程を省略化した硝酸と 見なすことも出来る.

生物活動に関わりのある他のトレーサの濃度分布を計算するためには, 生物生産を計算する必要からリン酸も一緒に取り扱う必要がある. 例えば, 溶存酸素は, 大気--海洋間のガス交換に加えて, 有機物の生産・溶解に伴って生成・消費されるため, 生物生産を決めているリン酸も取り扱う必要がある. モデルでは, 海水中の無機の炭素を, 全炭酸と全アルカリ度 (HCO$_3^-$・CO$_3^{2-}$に加えホウ酸や水などの電荷バランス) という量を定義して取り扱う. このような取り扱いは, 無機的な化学反応が移流拡散などの過程に比べて十分に速いこと, および炭酸系が緩衝溶液として海水のpHをほぼ8に保っていることから 可能であり, 海洋化学の分野において広く行われている. また, 炭素の同位体$^{13}$Cと$^{14}$Cも有益な情報を持つので, 計算されることが多い. 但し, 同位体分別効果を補正した$\Delta^{14}$C ($\equiv 0.975^2(1+\delta^{14}\mbox{C})/(1+\delta^{13}\mbox{C})^2-1$, Keeling,1981) に関しては, 生物過程を無視して計算されることが多い(e.g., Toggweiler et al.,1989). これは, 表層で生成された沈降粒子が深層で溶けることによって $\Delta^{14}$C値が大きくなる(若くなる)効果が, 北太平洋深層でも高々10\Mil 程度と小さいため(山中, 未公開), 通常の海洋大循環モデルで扱う 移流拡散のみを考えることでほぼ説明できることによる.

海洋中の炭素の滞留時間は, 海洋中の貯留量および陸上からの 河川流入速度や海底での堆積速度から求めるとおおよそ30万年程度であり, 海洋循環による深層水の滞留時間(1000〜2000年程度)に比べて十分に長い. 従って, 海洋中のトレーサー分布を求める問題においては, 河川流入や堆積過程を取り扱わなくてもよい. また, 人為起源二酸化炭素を扱う際には, 海洋循環や栄養塩循環が変化しないとするならば, 生物生産は変化しないので, 人為起源全炭酸濃度を, 産業革命時の全炭酸濃度からの ずれとして扱うことができる. すなわち, 大気--海洋間の二酸化炭素交換をどう扱うかの問題は残るものの, 人為起源二酸化全炭酸のみの移流拡散過程を考慮すれば良い. (Sarmiento et al.,1992). しかし, 海洋循環や栄養塩循環が変化する場合には, リン酸や全炭酸を取り扱う必要がある (Sarmiento and Qu\'{e}r\'{e},1996).


3. 溶存有機物と沈降粒子

3-1. 沈降粒子による生物ポンプ

沈降粒子は, 海洋表層における生物生産の結果, 表層から深層へ沈降してゆき, 深層で溶解する. これに伴い, 海洋表層の炭素が深層に 運ばれることから, これは``生物ポンプ''と呼ばれている. 沈降粒子の多くは有光層直下ですぐに溶解するため, 炭素の鉛直輸送量は深さとともに大きく変化する. % 深さ100mにおける鉛直輸送は, 輸出生産として定義されているが, およそ深さ400mの海洋物理学的な表層と深層の境である温度躍層における 鉛直輸送は, 輸出生産の約4割に減る. 従って, 沈降粒子の役割を考える際には, その溶解深度も輸出生産とともに考える必要がある. % YT96は, 簡単なボックスモデルを用いて, リン酸や全炭酸などの表層--深層間の濃度差は, 輸出生産と溶解深度の積に比例することを示し, これを``生物ポンプ''の強さ と呼んだ. さらに, この考え方で, 溶解深度を変えた海洋生物化学大循環モデルによるケーススタディの結果を 説明できることを示した. % 直感的なたとえで言えば, 同じ能力のポンプを2台用意して, 並列に置いた場合でも(生物生産が2倍になる) 直列に置いた場合でも(輸送距離が2倍になる), 同じだけの量が運ばれるということに他ならない.

CaCO$_3$のPOCに対する輸出生産比(深さ100mにおけるCaCO$_3$フラックスをPOCスラックスで割った比, rain ratioと呼ばれる)は, 観測から分かっていないため, Broecker and Peng(1982)の 2ボックスモデルによる議論から得られた値0.25が広く用いられている. しかし, このモデルでは, 表層と深層という2つのボックスを用いて議論しているために, 溶解深度を考慮していないか, 深さ400mを通過する両者のフラックスの比で議論していないか という欠点が残る. % CaCO$_3$の溶解深度がPOMに比べ深いことを考慮すると, CaCO$_3$のPOMに対する生産比は彼らの値より小さくなるはずであり, YT96では0.08$\sim$0.10と見積もっている.

Bacastow and Mair-Reimer (1991)とNajjar et al.(1992)は, 海洋生物化学大循環モデルを用いて, POMとともにDOMを考慮することによって, 観測された全海洋規模のリン酸濃度分布が再現できることを示した. 観測によると, リン酸濃度の極大は北太平洋深層の北部に位置するが, 彼らのモデルでPOMのみを考慮した場合には, 赤道太平洋深層に極大が生じる. これは, 生物生産が高い赤道域では, POMが深層で多く溶けるために深層水のリン酸濃度が高くなり, その水が赤道湧昇によって有光層に供給され, 生物生産をさらに高める, という栄養塩トラップが生じたためである. (Najjar et al., 1992). 一方, モデルにDOMを考慮すると, DOMが水平移流によって赤道域から外に運び出されるために, 栄養塩トラップを防ぎ, モデルで計算されたリン酸の鉛直分布は, 見かけ上, 観測分布に非常に近くなる(第3図). しかしながら, 彼らのモデルで計算された温度躍層が観測に比べて非常に深くなっていることから 分かるように, モデルで再現された流れ場は鉛直拡散が強いものになっている(第3図). そのために, POMのみを考慮した場合に観測分布が再現しなかったと考えられる.

Matear and Holloway (1995)は, Bacastow and Mair-Reimer(1991, 1992)などで用いられた流れ場を 少し修正することによって, POMのみを考慮した場合でも栄養塩分布が観測された分布により近くなることを示した. また, YT96でも(依然観測より深いものの) 温度躍層が観測に近づいたために, 栄養塩トラップが弱くなり, リン酸の鉛直分布は観測に近づき(第3図), リン酸濃度の極大が北太平洋深層の北部に位置するように なった. ちなみに, 鉛直拡散を大きくした場合には, われわれのモデルでも 赤道直下に極大が位置するようになる.

3-2. 溶存有機物の分布と時間スケール

一般に, DOMは, 物質循環における役割に応じて, 3つの典型的な時間スケールに分けて議論されている(Kirchman et al.,1993). 海洋生態系の振舞いに伴うDOMは, その生産分解が速く, 易分解性溶存有機物(labile DOM,以後L-DOMと表す)と呼ばれる. 現在見積もられているL-DOM生産量と分解時間を考慮すると, L-DOC濃度は他の2つのDOCに比べて低いことが分かる. 一方, 深層のDOMは, その濃度が一定であり, 難分解性溶存有機物(refractory DOM,以後R-DOMと表す)と呼ばれる. これら2つの中間的なものが, 準難分解性溶存有機物(semi-labile DOM,以後S-DOMと表すことにする)であり, S-DOM濃度は海洋表層で高いものと思われる. しかしながら, どのような有機的組成を持つものがDOMとなっているか, さらにその生成分解過程がどのようなものか, ということは現状ではよく分かっていないため, これら3つのDOMがどのように分布しているかを 観測より明らかにすることは困難である.

Sugimura and Suzuki (1988)が 高温触媒酸化法(HTC法)を用いて示したDOCの鉛直分布を 説明するためには, 温度躍層を超えて 表層から深層へある程度の量のDOMの輸送が必要となる. Bacastow and Maier-Reimer(1991)やNajjar et al.(1992)は, 50年から数100年程度の分解時間スケールをもつS-DOMによって, DOCの鉛直分布を説明した. しかし, Sugimura and Suzuki(1988)による 当初の測定結果には問題があり, Suzuki(1993)によって取り下げられた. その後, HTC法は, ブランクの問題などを考慮することにより(Sharp, 1993; Sharp et al., 1995), 技術的に確立した方法として 世界中で広く用いられるようになった. HTC法を用いた最近の観測によると, DOC濃度はSugimura and Suzuki(1988)に比べて 大幅に低くなり, 次のような濃度分布を示している. % S-DOCはおおよそ200m以浅にのみ存在し, 海洋表層のDOC濃度は地域ごとに差があり (Tanoue, 1992, 1993; Ogawa and Koike, 1997), 赤道を挟んで南北10度程度に極大を持つ分布をしている (Tanoue, 1993). また, Carlson et al.(1994)によって, 海洋有光層におけるDOC濃度は季節変化し, バミューダ沖の定点観測によって, 冬季の対流によって深さ200m程度の亜表層へDOCが運ばれていることが示された. YT97は, 観測されたDOC濃度の水平および鉛直分布に注目し, POMに対するS-DOMのとの生産比およびS-DOMの分解時間の2つを変えた ケーススタディーを行い, それぞれをおよそ2および半年程度とすることによって, 観測されたDOC濃度分布を矛盾なく説明できることを示した. また, YT97は, 赤道直下の生物生産によって生成されたS-DOMが, エクマン輸送によって高緯度方向に運ばれ, DOC濃度極大(double DOC maximum zone, DDMZ)を形成しているを示し, このS-DOMによる栄養塩の輸送は, 亜熱帯外洋の生物生産にとって重要なものとなっていることを指摘した.

一方, 深層におけるDOMはほとんどR-DOMであり, その濃度は大西洋から太平洋まで観測誤差の範囲内で 一定であると考えられてきたが(Martin and Fitzwater, 1992), 最近ではHTC法の測定方法が確立され, 大西洋のほうが太平洋に比べて有意に濃度がわずかながら高いと言われている (Peltzer, 私信). また 観測された大西洋--太平洋間のDOCの$\Delta^{14}$C値の差は, $\Delta^{14}$C年齢で比較すると DICの$\Delta^{14}$C値の差と等しくなっている(Dulffel et al., 1992). この大西洋--太平洋間のDOC濃度および$\Delta^{14}$C値の差 を考慮すると, もし深層におけるDOC濃度が一定ならば, 深層におけるR-DOMは分解せず保存されていることを意味し, 逆に, 大西洋--太平洋間に濃度差があるならば, R-DOMは深層で分解されることを意味する. 後者の場合は, 表層で作られたR-DOMが深層で分解しているので, R-DOMが炭素を鉛直輸送していることになる. YT97では, 大西洋--太平洋間の濃度差が6$\mu$molC/kg のときには, 0.06GtC/年と見積もっている. これは, 8Gt/年のPOMの輸出生産に比べると, 一見小さな量に思われるが, 1000m以深に運ばれるPOMの量約1Gt/年と比べると 必ずしも無視できる大きさではない. 従って, 深層における高精度のDOC濃度の観測が必要である.

3-3. 輸出生産

輸出生産は, 前に述べたように, 通常深さ100mにおける鉛直フラックスで定義されるが, その値は, 観測方法によって4Gt/年 (Eppley, 1989)から 20Gt/年 (Packard et al., 1988)と大きくばらついている. また, モデルでは約10Gt/年程度に見積もられている (Najjar et al., 1992; YT96). IPCC (1990)では古典的な観測値である4Gt/年が用いられているが, IPCC (1995)ではモデルの結果が用いられている. YT97でも, POMおよびDOMによる輸出生産がそれぞれ8Gt/年・3Gt/年 と見積もられている. しかし, YT97モデルから得られた亜熱帯外洋域における沈降粒子量は, セジメントトラップ(海洋深層に一定期間係留し沈降粒子を捕らえる機器) で測られている量に比べて, 2倍弱程度多くなっている. これは, モデルの鉛直方向の疑似拡散が大きいこと, R-DOMによる鉛直輸送を考慮していないことによる モデルの見積もりの過大評価, および, セジメントトラップの沈降粒子の捕捉率が低いことによる 観測の見積もりの過小評価によるものと思われる. 従って, 輸出生産の量をより正確に決めるためには, さらなるモデルおよび観測による研究が必要である.



4. 古海洋への応用

過去の地球表層環境(古気候・古海洋)の状態を復元することは, 気候システムのより広い範囲での振舞いを知るために重要である. いわゆる地質学的記録を用いて, 復元を行う際に, どのような環境でどのような記録が残るのかという知識が予め必要となる. この地質学的記録は, 気象学・海洋物理学で主に扱う 風速, 流速, 温度, 降水,塩分などの直接的な物理量ではなく, 氷床, 湖底, 海底コアなどに含まれる花粉, 有孔虫, 同位体, 有機物などといった 間接的なのものである. これらの物理量と間接的な証拠を結び付けるためには, 単に現在の環境のもとでの経験的な関係を用いるのではなく, 物理学的立場に基づいたより広い環境に適応できる理論による関係を用いる必要がある. すなわち, 物質循環は気候システムの一部として重要であるが, その研究は気候力学と古気候学・古海洋学との橋渡しを行なう点でも 不可欠である. 海洋物質循環モデルを古海洋に適応した例は, 山中(1996)に詳しく述べてあるので, ここでは省略することにする.



5. 人為起源物質の海洋による吸収について

人為起源二酸化炭素, 核実験起源放射性同位体炭素, フロンなどの人為起源物質が 海洋に吸収されどのように分布するかという問題は, 地球環境問題のみならず, 海洋物質循環の観点からも極めて興味深い. すなわち, 物質による大気--海洋間のガス交換時間やその温度依存性などの特性の違い および 百年から数十年の時間スケールの大気中濃度の時間変化の違いが海洋中の 濃度分布にどう反映されるかといったこと, また, フロンの観測分布との比較によってモデルの振舞いを確かめられること, などが挙げられる. 例えば, 北太平洋の中層は, 上層で卓越する北太平洋規模の風成循環や, 深層で卓越する全海洋規模の熱塩循環, 北太平洋規模で中層に存在すると考えられる熱塩循環が入り交じった複雑な 流れの場であるが, 人為起源物質がちょうど中層付近に拡がりつつあるため, このような濃度分布がどのようにして決まっているかという問題は 海洋物理学にとっても興味深いものである.

人為起源二酸化炭素や核実験起源放射性同位体炭素, フロンについての 特性の違いをまとめると, 次のようになる. 人為起源二酸化炭素や核実験起源放射性同位体炭素の海洋表層--大気間の交換時間は, 二酸化炭素の海洋表層--大気間で分圧平衡に達する時間(およそ8ヶ月), 炭素同位体が海洋表層--大気間で平衡になる時間(およそ6年) によって決まっているため, フロン11/12(およそ2ヶ月)と比べても長くなっている. 二酸化炭素の産業革命時点からの増加量を議論する際には, 高緯度--低緯度間の 二酸化炭素濃度の増加量に関する溶解度は, 数十\%程度の違いしかない. それに対し, フロン11/12は高緯度・低緯度で約4倍程度の違いがある. また, 各々の大気中の濃度については, 人為起源二酸化炭素濃度は産業革命から徐々に増加したのに対し, フロン11/12濃度は1970年代以降急速に増加し, 核実験起源放射性同位体炭素濃度は1960年代に増加しそれ以後減少する パルス的時間変動をしている.

山中・阿部(1996)は, これらの大気中の濃度変化を与え, 産業革命時点から1990年までの海洋における分布を計算した. 1990年時点の太平洋表層における分布を第4図に示す. 人為起源の全炭酸の分布パターンは, 核実験起源の$\Delta^{14}$Cのものと比較的似ており, フロン11のものとは大きく異なる. フロン11の濃度は高緯度で高くなっている. フロンの海洋表層--大気間の ガス交換がその他の過程に比べて速いため, その場の海面水温・塩分から決まる平衡分圧に近いこと, その平衡分圧の温度依存性が強いことによっている. 従って, フロン11の濃度分布は, 海面水温の分布パターンと似ている. 但し, 南大洋では, 同じ水温でも他に比べて低い濃度を示す海域がある. この領域では, 鉛直対流が起こっているために大気--海洋間のガス交換による 平衡が遅れているためである. 一方, 人為起源の全炭酸濃度と核実験起源の$\Delta^{14}$C値は 亜熱帯域で最も高くなっている. これは, 赤道域で湧昇した産業革命以前の水を含む水が, エクマン流で高緯度に運ばれるうちに, 徐々に大気中の人為起源二酸化炭素と核実験起源放射性同位体を吸収するためである. 最も高い値のところは, エクマン収束する緯度に対応する. 赤道域から伸びる核実験起源の$\Delta^{14}$の低い値の領域が 全炭酸と比べて拡がっているのは, 放射性同位体炭素のガス交換平衡時間が二酸化炭素に比べて長いことによる.

人為起源物質の分布の計算が, 流れ場を改善するために有益な情報をもたらすという例として, England (1995)よるケーススタディが興味深い(第5図). 等密度面拡散(Isopycnal diffusion)を用いた場合には, 温度た塩分の分布が良くなることが 知られていたが, フロンの分布は逆に水平・鉛直拡散を用いた場合よりも 拡散が大きい結果となっている. Gent et al.(1995)の 等密度面間の層厚を拡散させるパラメタリゼーション(GM-mixing)を用いた場合には, かなり観測に近い分布になる. しかし, 低緯度では, モデルの方が観測に比べてフロンが深いところまで貫入している. これは鉛直移流を中央差分スキームで表現したことによるために生じたもので ある可能性がある(Yamanaka and Suginohara, 投稿準備中). 我々も同様な計算を行なったところ, 水平・鉛直拡散を用いた場合でも出来る限りその係数を小さくとり, 鉛直の層の数を増やすことによって, GM-mixingと比較できるくらいの結果が得られること が分かった(第5図).


6. おわりに

ここでは, 私が行ってきた研究をまじえて 1990年代に発展した主にモデルを用いた 海洋物質循環に関する研究を紹介した.

YT96やYT97で示したことの一つは, 物理場である海洋循環がうまく得られていれば, ごく簡単な生物化学過程を組み込むことによって, 大まかな全海洋規模の 栄養塩や生物生産の分布を再現出来るということである. 例えば, YT96やYT97のモデルでは, 輸出生産は, 栄養塩の表層濃度に比例しているものとして, 全海洋にわたって同一の比例係数を用い, POMの沈降粒子の鉛直分布も海域によらず 同じものを用いている. 一方, 実際の海洋では, 生物生産が高い海域と低い海域ではプラントンの種の構成も異なり, 明らかに上のようなパラメタは海域ごとに異なることが 容易に推測される. これらのことは, Fasham et al.(1990)やKawamiya et al.(1994)などの 生態系モデルとは異なるアプローチとして, ここで示した海洋生物化学大循環モデルに 生態系の振舞いをパラメタライズする必要性を示唆している. それによって, 物質循環における生態系の役割が明らかになり, 地球温暖化や氷期の海洋循環の変動に伴って どう海洋生物生産や海洋物質循環が変動するのか を知ることにつながる.

最後に, 学生の人の何かの参考になればと思い, 私事について書かせていただ く. 1990年の修士課程2年のときのBroecker and Peng(1982)の``Tracers in the Sea''の 読書会で, 初めて海洋物質循環に接した. 全炭酸やアル カリ度, 生物過程の概念は分かりにくく, 努力したものの, その後2年間は理解 出来ずにいた. そして, (私はすでに助手になっていたが)博士課程2年相当のとき, 当時ポスドクだった田近英一博士ともう一度読書会を行い, 「要するにこうなんだ」 と秋のある日に霧が晴れたように理解できた. そういう目で過去の研究を見直すと Bacastow and Maier-Reimer (1990)が見つかった. 概念が分かってしまうと, モデルを組み立てるのはそう難しいものではなく, 1992年の年末には 最初の矩形の海のバージョンが出来上がった. 計算を始めて2週間後には CaCO$_3$のPOCに対する輸出生産比の値の問題点に気がついたが, 世の中の人に説得力を持つように するため, 矩形の海から, 理想化した全海洋モデルを経て, 現実地形の全海洋モデルへ改良し 数百ケースの実験を行い, 論文が雑誌に載るまでには, 1996年までかかってしまった.

私の指導教官の杉ノ原伸夫教授(東大・気候センター)は, 何もないところからの研究に対して長い目で見て下さり, 数多くの助言や激励を下さいました. 論文の共著者の田近英一博士(東大・理), また, 住明正教授(東大・気候センター), 松野太郎教授(北大・地球環境), 熊沢峰夫教授(名大・理)は, 議論や激励を行って下さいました. 私の海洋物質循環に関する研究には, 日本気象学会, 日本海洋学会, 日本地球化学会の数多くの人との 議論や助言が不可欠だったように思います. この場を借りてお礼申し上げます.


参考文献

第1図 \hspace{1mm} 1980年代における 大気, 海洋, 陸面における各リザーバーの炭素貯蔵量と その間のフラックスの見積り. 上から (a) IPCC(1990), (b) Sarmiento and Siegenthaler(1992), (c) Siegenthaler and Sarmiento (1993). 図(a)における Biota(生物)からIntermediate and Deep water(中深層水)への フラックス(4Gt/yr)がPOMによる輸送. Surface Ocean(海洋表層)からIntermediate and Deep waterへの フラックス(5Gt/yrになっているが35Gt/yrが正しい)が DICによる鉛直下方輸送. 逆向きのフラックス(37Gt/yr)がDICによる鉛直上方輸送. 図(b)における BiotaからDOC(1600Gt)を経てDeep Ocean(海洋深層)へのフラックス(8Gt/yr)が DOMによる輸送. Biotaから直接Deep Oceanへのフラックス(2Gt/yr)が POMによる輸送. Deep OceanからSurface Oceanへのフラックス(8.4Gt/yr)が DICによる鉛直上方輸送および下方輸送を合わせたもの. Surface OceanからDeep Oceanへのフラックス(0.2Gt/yr)は 河川流入から海底堆積へつながるフラックスを表している. 図(c)における BIOTAからDOC(700Gt)を経てINTERMEDIATE \& DEEP WATERS へのフラックス(6Gt/yr)がDOMによる輸送. BIOTAから直接INTERMEDIATE \& DEEP WATERSへのフラックス(4Gt/yr)が POMによる輸送. SURFACE OCEANからINTERMEDIATE \& DEEP WATERSへの フラックス(91.5Gt/yr)がDICによる鉛直下方輸送. 逆向きのフラックス(100Gt/yr)がDICによる鉛直上方輸送. なお, IPCC(1995)の図の海洋に関する部分は, Siegenthaler and Sarmiento (1993)をもとに作成されているため, DOCの見積りを700Gtから$<700$Gtに変更している以外は 海洋部分に関しては同じ値を用いている. 第2図 \hspace{1mm} 海洋大循環モデルに組み込まれた簡単な生物化学過程. pCO$_2$は二酸化炭素分圧, POMは粒子状有機物, O$_2$は溶存酸素, PO$_4$はリン酸を表す. 海洋中の二酸化炭素分圧は, 全炭酸(Total CO$_2$)・アルカリ度・温度・塩分より化学平衡のもとで 得られ, 新生産は有光層(50m)内でリン酸濃度と光強度の関数として求め, 大気--海洋間のガス交換は二酸化炭素分圧差より与えられる. 河川流入・堆積過程は考慮していない. 第3図 \hspace{1mm} 全海洋平均した水温とリン酸濃度の鉛直分布. 左がNajjar et al.(1992)によるもの. 右側がYT96によるもの. 太実線は観測値. 太破線はモデルから得られた水温. 細破線はPOMのみを考慮した場合のリン酸濃度. 細点線はPOMとDOMを考慮した場合のリン酸濃度. 第4図 \hspace{1mm} 太平洋表層における 人為起源の全炭酸(等値線間隔 5$\mu$mol/kg), 核実験起源の$\Delta^{14}$C(等値線間隔 10\Mil), フロン11(CFC-11)(等値線間隔0.5pmol/kg)の濃度分布および水平流速. 図中の点線は, モデルで得られたエクマン流が収束する位置. 人為起源の全炭酸および核実験起源の$\Delta^{14}$Cは, 1990年時点の値から産業革命以前の値をひいたもの. 第5図 \hspace{1mm} England(1995)および我々のモデルによる Ajax鉛直南北断面(グリニッチ子午線)におけるCFC11の分布. (a)-(c)はEngland(1995)による結果. (d)は観測. (e)は我々のモデルの結果.
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北海道大学 山中康裕